まず第一に、カトリックはマリアを崇拝しているわけではありません。 我々は彼女がイエスの母であるため、彼女を尊敬しています。 神ご自身が、マリアをご自分の独り子の母としてふさわしいと認めて、敬ったのです。 神は天使ガブリエルをマリアに遣わし、「恵みに満ちたマリアよ、万歳!」と告げました。 主はあなたとともにおられる。 あなたは神に気に入られたのだから、恐れてはならない。 見よ、あなたは胎内に子を宿し、イエスと名付けなさい』」。 マリアは言った、『見よ、わたしは主のはしためです。 お言葉どおり、この身に成りますように」

私たちがマリアを尊ぶのは、神ご自身がマリアを尊ばれたからである。 世界のすべての女性の中から彼女を選んで、御子を産ませたのである。 マリアは神にイエスと答え、赤ん坊のイエスを産んだが、ノーと言うこともできたのである。 私たちがマリアを教会で最も偉大な聖人と仰ぐのは、彼女が神にイエスと答えたからです。 マリアはヨセフと婚約していながら、未婚の母であるために石打の刑に処される可能性があったことを知っていました。 マリアはヨセフや両親、町の人々がどのように反応するかを知っていて、とにかくイエスと言ったのです。 だから、私たちは彼女を教会の精神的なヒーローとして尊敬しているのです。 神はマリアに自分の息子を愛し、世話をするようにと信頼し、彼女は十字架の下に至るまでそのとおりにしたのです。 私たちはマリアの写真を持っていません。 多くの人は両親や祖父母など先祖の写真を持っていますが、私たちはマリアを視覚的に記憶する術を持っていません。

芸術家たちも、マリアが聖書で読んだだけの人物ではなく、実在の人物であることを視覚化するために、彼らが信じるマリアの姿を絵に描いてきました。 カトリックでは、イエスの代わりにマリアに祈ることはありません。 私たちの祈りはいつもイエスに向けられます。 しかし、時には、マリアが私たちの代わりにイエスに語りかけ、私たちの祈りに答えてくれるよう考慮してくれるようお願いすることがあります。 イエスは母親をとても愛しておられるので、私たちはマ リアが、カナの婚礼でイエスに “ぶどう酒がありません “と言った のと同じように、私たちの祈りを聞くようにイエスに影響を与えること ができるようにと願っているのです。 イエスは母の願いを聞き入れ、婚礼の招待客のために水をぶどう酒に変えるつもりはなかったのですが、母に頼まれたのでそうされました。

私たちがロザリオを祈るとき、ロザリオ全体がイエスの生涯についての考察、黙想になっています。 天使がマリアを訪ね、マリアがエリザベトを訪ね、赤ん坊のイエスが生まれ、神殿で発表し、幼いころ迷子になり、両親が心配して病んだときのことがロザリオで語られます。 ロザリオは、イエスが洗礼を受け、水をぶどう酒に変え、群衆に説教し、光の幻に変容し、弟子たちとの最後の晩餐の物語を語るのです。 そして、園でのイエスの苦悩、柱で打たれ、いばらの冠をかぶせられ、十字架を背負い、磔にされ、その後、復活して天に昇られたことがロザリオで語られる。

ロザリオで祈る万歳は、聖書の中で天使ガブリエルがマリアを迎える聖句であるが、この万歳の祈りは、マリアを迎えるときに、天使ガブリオエルの声で、マリアは、その聖句のように言った。 恵みに満ちたマリア万歳」である。 この聖句は、イエスの生涯を振り返るために心を解放する瞑想の一種として祈るのです。 外見上はマリアに祈っているだけのように聞こえますが、目に見えないところでイエスの生涯を考えているのです。 ロザリオでイエスの生涯の物語を考えるたびに、それはマリアにバラを捧げるようなものです

マリアが私たちに求めることはただ一つ、私たちが彼女の息子を愛することです。 マリアは決して自分に注意を向けず、いつも私たちの注意を自分の息子であるイエスに向け、私たちもイエスを愛するようになるのです」

著者, Laura Kazlas

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